笹川貴史プロフィール

こんにちは!笹川貴史です!

 

めまして!

 

・ 1990年生まれ
・ 出身地 北海道
・ 現住所 東京都
・ 趣味 剣道・筋トレ・ランニング

 

書いていて、悲しくなってくるのですが、
本当に体を動かすことにしか興味がなかったので
運動していないと死んでしまうのではないかと
いったような感じです(笑)

 

 

この度、ブログを立ち上げるに伴い、

・ 私がどんな人物なのか

・ どのようなことをして今まで生きてきたのか

・ なぜ起業という道に入ったのか

 

 

について書き出していきたいと思います。
かなり長くなりますが、読んでくれると幸いです!

デブがきっかけで、始めた剣道

私の出身は、北海道と書きましたが、とても
田舎の町で生まれ育ってきました。

 

 

どれくらい田舎かというと、24時間のコンビニは
家の近くにはありませんし、マクドナルドとか
ファーストフード店も街中には存在しません。

 

 

農業や漁業が有名な街として知られており、
一番の名産品は、駅弁の”いかめし”というものが
全国で1位を取ったことがあります。

 

 

田舎の生活は都会とは全く違い、私が小さいころは
パン屋さんが出張という形で家にパンを売りに
来るのが当たり前でした。

 

 

5人兄弟の4男(上は全て男)として生れた私は
おばあちゃんから、かわいがられていたこともあり、
よくパンを買ってくれては、私に与えてくれていました。

 

 

私は、みるみる太っていき、幼稚園児の中では
群を抜いてデカかった(横に)です。

 

 

私がじゃれて同級生を叩くと、本当に痛かった
みたいで、よく力加減をしなさい!と怒られた
記憶が残っています。

 

 

家にいると、ずっと食べ物を食べている私を
見かねて母親から、兄たちが通っている剣道の
道場に強制的に連れられて行かれました。

 

 

初めてみた剣道は、同じ年代の女の子、男の子が
防具を付けて一生懸命稽古をしていてカッコいいし、
兄がレギュラーとなって試合に出ている姿を見ると、
自然に私も剣道の魅力に取りつかれていきました。

 

 

剣道の魅力にはまっていき、小学2年生から
始めたのですが、肝心の体重は減ることなく、
なんと小学校6年生の時には70キロを
超える立派なデブになっていました。(笑)

 

 

兄弟からも体重のことに関してバカにされるので、
痩せなくてはいけないと思ってはいたものの
どうしても食欲を抑えることができませんでした・・・

奨学金を借りて剣道強豪校へ進学、そして就職

デブだった私ですが、剣道は兄や同級生の
影響もあってか、割といい成績を残していました。
(北海道で2位とかですね。)

 

 

剣道を辞めようとも思っていませんでしたし、
むしろ”もっと強くなりたい”と思っていたので、
私立の剣道強豪校へ進学を決意していました。

 

 

しかし、家の経済状況があまりよくなかったの、
親は地元の公立高校を私に勧めてきました。

 

 

中学時代に剣道で成績を残し、特待まで頂いているのに
行きたい高校に行けないなんて・・・・
今思えば、初めてお金がないと選択肢が
狭くなるのだと感じさせられた出来事でした。

 

 

私は、どうしても特待を頂いた高校に進学したいと
思い、自分で返済することを条件に奨学金を借り
何とか希望の高校へ進学したのです。

 

 

しかし・・・・待っていたのは地獄の練習の
日々だったのです。

 

 

毎日放課後3時間30分の練習は、全力で声を
出す準備体操から始まり、基本稽古から応用稽古まで
毎日ガッツリ稽古漬けの毎日だったのです。

 

 

高校は親元を離れて寮に入っていましたから、
練習が終わっても、怖い先輩たちから離れる
ことはできませんでした(笑)

 

 

食事の用意をしたり、マッサージをしたり、
洗濯をしたり・・・・とにかく毎日ボロボロに
なりながら剣道をやっていたのです。

 

 

気が付くと高校入学して、たった3ヶ月程度で
10キロ以上痩せており、初めて腹筋が
シックスパックが出るようになるまでに。

 

 

初めて自分の腹筋が割れている感動もあったの
ですが、毎日の激しい稽古に体が付いて行かず、
私は高校1年生にして椎間板ヘルニアになったのです。

 

 

病院へ行き、リハビリしても、とれない体の
痛みに耐えながら稽古をしたが、同級生との
実力もどんどん開いていくのを感じました。

 

 

私がいた剣道部は、試合の度に部内戦を行い、
勝率のいい選手が試合に出るという厳しい
条件でやっていました。

 

 

大会でいくら全勝しても、次に行われた部内戦で
勝たなければ試合には出れないということです。

 

 

そして、高校3年生のインターハイ予選の選手を
決める部内戦で、私は実力を発揮できず、
高校最後の試合は幕を閉じたのです。

 

 

部活を引退後は、とにかく就職することに
集中していました。

 

 

もともと勉強があまり得意ではなく、
大学に行くつもりは全くありませんでいたし、
働いて奨学金を返したいと思っていたのです。

 

 

当時は、「大学は遊びたい奴がいくところ」と
思っていましたが、今になって考えれば、
友達を作りにでも行っておけばよかったなと
ちょっと後悔もしています(笑)

 

 

私は、運よく高校卒業後すぐに関東圏内での
就職が決まり、初めて北海道を出て、生活をする
ことに緊張と期待を抱いていました。

 

 

北海道を離れる前夜、緊張がピークになり、
間違えて洗顔フォームを歯ブラシに付けて
口に入れたのを覚えています(笑)

社会人2年目で起きた東日本大震災

就職先では、たくさんの同期や先輩
上司に恵まれて、忙しいながら充実した
社会人生活を送っていました。

 

 

忙しいときは、一日中寝れない日もありましたが、
休日には先輩がバイクで江の島へ連れて行ってくれたり、
朝までカラオケに連れて行ってくれたり、合コンに
田舎者の私を呼んでくれたり(笑)

 

 

とにかく人に恵まれて、忙しいながらも
やりがいも感じられる仕事、職場に出会い、
「一生懸命頑張ろう!」と漠然と思うように
なっていったのです。

 

 

しかし・・・・3月11日に転機は訪れました。

 

 

泊りの仕事が終わり、社員寮で睡眠をとっていると
物凄い揺れに襲われ私は飛び起きました。
相当疲れていた私でも、身の危険を感じて、
寮の外に飛び出し避難しました。

 

 

揺れが収まり、テレビを見てみると、
そこには日本で起こっている光景とは思えない
なんとも被災な光景が映し出されていました。

 

 

津波から、逃げまとう人たちが映し出され、
必死に津波から逃げるも、濁流にのみ込まれる・・・

 

 

人だけではなく、車も家も木も全てを飲み込みながら、
大きな津波は東北の人たちを襲っていったのです。

 

 

両親と職場に安否の確認電話をかけ、その後は
しばらくテレビで映し出されている光景に
釘付けになっていました。

 

 

その日からテレビでは、連日大震災関連の
ニュースが放送され、多くの犠牲者や行方不明者が
いると放送され、今でもたくさんの方が
見つかっていないというような状況です。

 

 

私は、「なにかできることはないか」ということを
思い、震災から約1か月後に、ボランティアという形で
岩手県の陸前高田に向かったのです。

ボランティア活動、そして職場に違和感を感じ始める

被災した東北は、全てが波に飲み込まれ、
街ごとなくなっているという状況でした。

 

 

カーナビに映し出される道路は、水没しており、
行く手を阻み、かろうじて通れる道路でも、
釘やがれきが散乱しており、何度もパンクを
しながら目的地までたどり着いたのです。

 

 

大規模な津波は、家屋の基礎ごと飲み込み、
家の屋根部分しか見えなくなるまで海に引きずり
込まれていました。

 

 

頑丈な家屋でさえ、海に引き込まれている状況なのに
人間がいくら何かに捕まろうが、簡単に引き離されて
飲み込まれてしまったことは容易に想像ができました。

 

 

実際、亡くなった方の約65%は逃げ遅れたであろう
高齢者で、約90%は溺死だったそうです。

 

 

ボランティア活動では、実際に被災者の方と
お話しする場面もありました。

 

 

私は、自分より年上であろう、男性と
お話する機会があったのですが・・・・
男性は、奥さんを震災で亡くされていたのです。

 

 

「大きな地震が来て、台所で料理をしている奥さんに
避難をしようといったのですが、

 

妻は”津波なんて来ないわよ”

 

そういって料理を続けたのです。私は念のため
娘を連れて高台に避難すると、ほんの数分で黒い津波が
押し寄せて次々と家を飲み込んでいったのです。

 

 

いくら高台から叫んでも妻には届かず、先日
遺体で妻が見つかりました。
あの時、私が髪の毛を引っ張ってでも避難していれば
妻は助かったのかもしれません・・」

 

 

私は、本当になにも言えませんでしたし、
人間なんて震災の目前では無力なんだと
感じました。

 

 

このボランティアを通じて、今までなんとなく
日々を過ごしていた自分自身に不快感を覚え始めたのです。

 

 

会社の仕事は確かにやりがいはあったのですが、
上司や先輩達と飲みに行くと、決まって
愚痴を言い合いながらお酒を飲んだり・・・・

 

 

「あいつは使えないやつだ。」
「この残業ばっかりの会社はどうにかならんかね。」
「あのクソ上司に使われたくないな」

 

 

日頃のうっぷんを晴らすかのように、記憶が
なくなるまでお酒を飲んでいたときもありました。

 

 

ボランティアを経験後は、「本当に自分は
このままの人生で良いのだろうか・・・」と
考える機会がめちゃくちゃ増えました。

 

 

震災で亡くなった方は、まさか大津波がきて
自分が死ぬなんてことは、考えていなかったでしょうし、
平凡な毎日を過ごすと思っていたはずです。

 

 

ボランティア以降、関東に住んでいる私も
いつ震災によって命が奪われてもおかしくない!
と強く考えるようになったのです。

 

 

しかし、現実的になにかすぐに行動を起こす
ということはなく、不安を抱きながら会社員を
続けていったのです。

価値観が変わったフィリピン旅行

ボランティア後、すぐに私は起業しようとかはせず、
とにかく毎日を全力で生きることを心がけていました。

 

 

そのおかげなのか、会社では最年少で昇給し、
若くして役職に就かせていただいたのです。

 

 

当時は、仕事一筋で、休日は泥のように眠り、
また仕事に行くような生活を送っていましたので、
プライベートで出かけるとか、旅行に行くといった
ことはほとんどなくなっていきました。

 

 

しかし、私の会社では、1月2月に強制的に
社員旅行に行くことになっており、私は初めて
この時海外旅行に行くことになったのです。

 

 

旅行先がフィリピンに決まり、周りの社員は
海に行こうとかシュノーケリングをやりたいとか
盛り上がっていたのに私は、「めんどくさいな・・・」
くらいにしか思っていなかったので、

 

 

まったく下調べをせずに旅行当日を迎えました。
普通旅行ってワクワクするものなのに、職場旅行に
冷めていた自分がいました。

 

 

現地では、ガイドさんが付いてくれて綺麗な海から
クラブ、観光地まで様々なところを案内してくれ、
夜になれば、日本でいう風俗的なところも
案内してくれたのですが・・・

 

 

そこで私たちは、衝撃的な事実を知ることになったのです。

 

 

外国からの旅行者であろう男性が、フィリピン女性を
指名し、ホテルに向かうとき、すぐ横で歳をとった
ご年配の男性や女性が、喜んでいたり、落ち込んでいたり
する光景が目に入ったのです。

 

 

私は、ガイドさんに「あの年配の方たちは誰なの?
どうして喜んだり落ち込んだりしているの?」と
尋ねると、

 

 

「あぁ、年配の方たちは風俗嬢の親だよ。
喜んでいたのは、自分の娘が買われて、家に
お金が入るからだよ。

 

 

海外の旅行客がお金を払って娘と遊んでくれると
その家族が1か月は生活ができるからね。」

 

 

衝撃でした。選ばれた女の子は、両親に向かって
誇らしげに笑顔を送っていたし、両親もまた自分の
娘が買われて喜んでいたのです。

 

 

現在、東南アジアは急速に経済成長しており、
フィリピンもまたすごく経済発展している国の
1つです。

 

 

しかし、現実は貧富の差も激しく、収入を
多くもらうには女性は体を売るしかないんだと
ガイドさんは言っていたのです。

 

 

自分で仕事を選択できる日本は、それだけで
豊かな国なんだと実感させられる旅行と
なったし、もっと他の国も見てみたいという
欲求に掻き立てられたのです。

ビジネスの師匠に出会い、退職を決意

会社の仕事はこれまで通り一生懸命こなして
いたのですが・・・・

 

 

私が行きたいと思い始めた海外旅行には
年に1回しか行けないような状況でした・・・
どこの会社もそうだと思いますが、有休は限られているし
海外旅行になるとそれなりに費用も掛かります。

 

 

自分の生活もありますから、いきなり会社を辞める
ということはできませんが、なにか他に始めないと
現状を変えられないと感じ始めたのです。

 

 

まず、自分が
”なんで好きな時に海外旅行にいけないのか”を
考えるようになったのです。

 

 

当たり前ですが、

 

”お金と時間”です。

 

 

会社を辞めたら時間はできますが
給料はもらえません。だからまずは、副業で
会社以外に収入を作ろうと考えたのです。

 

 

今までの私なら「自分は頭が悪いから、
副業なんて無理だ・・・」とあきらめてしまった
かもしれませんが、当時の私は行動を起こさずには
いられない衝動に駆られていました。

 

 

すぐに行動を起こし、今まで貯金していたお金を
崩して、ネットビジネスの教材を買ったり、
30万円する起業塾に入ったりもしました。

 

 

初めて知るビジネスの世界は、自分の知らないこと
ばかりで楽しくて仕方がありませんでした。

 

 

人はどういった時にものを購入するのか、
何が一番安定的に稼げるビイネスモデルなのか、
色々なことをスポンジのように吸収していきました。

 

 

稼いだお金を使って、更にビジネスを学ぶため、
色々なコミュニティに参加をしたりもしました。

 

 

そこで出会ったのが、私のビジネスの師匠です。
先生は私よりたった3歳年上なのに、すでに
事業で成功され本も出版している方でした。

 

 

ビジネス戦略もしっかりしていて、どうすれば
安定的に収入を得られるのか懇切丁寧に
説明をしてくれました。

 

 

今はネット環境も整っており、誰もが小資本で
起業できることを知り、「これから会社を辞めて
自由に海外旅行に行けるかもしれない!」と
思えるようにまでなりました。

 

 

そして遂に私は、会社を辞める決意を固め、
上司に退職すると伝えたのです。

 

 

すると上司からは「なにを怪しいことを始めるんだ?」と
尋問が始まり、今まで仲が良かった先輩や同僚からは
白い目で見られるようになってしまいました。

 

 

若くして、昇給した私が退職することをもったいないと
本気で説得してくれる方もいましたが、たった1度の
人生なのに自分の気持ちに嘘をつくことは、
もうできなくなっていました。

 

 

私は周囲の反対を押し切り、遂に一人の
起業家として出発したのです。

起業、今後の目標について

実際に起業してみて感じたことは、

 

 

めちゃ大変

 

 

ということです(笑)今流行りのユーチューバーとか
みると「好き勝手なことをしてお金をもらえる
なんて羨ましいな~」なんて思っているかも
しれませんが、そんなに甘くはありません。

 

 

自分の好きなことで生活していくということは、
”全て自己責任だ”ということに言い換えられます。

 

 

当然、自分の仕事を管理してくれる上司はいませんし、
全て自分で考えて収入を増やしていかなければ
生活することができません。

 

 

いくらネットビジネスが小資本で始められるとはいえ、
自分で膨大な作業量をこなさなければ、収入は
発生しませんし、間違った方向に努力をすれば
結果は出ません。

 

 

会社では「残業しているのが美徳」と
いうような風習があったかもしれませんが、
ビジネスの世界は完全に結果が全てです。

 

 

いくら頑張ろうが、努力は全く評価されず、
結果だけが自分を救ってくれる厳しい世界ですが・・・・

 

 

私は、毎日エキサイティングしていて、
楽しいと感じております。
 

 

誰から文句を言われることなく、自ら仕事を
探しに行く、結果を出すために手段を考えて
行動することは決して会社にいてはできない経験です。

 

 

起業したおかげでたくさん海外旅行にも行けて
色々な体験や価値観を得ることができました!

台湾にてクルージングパーティーに参加

 

香港の100万ドルの夜景をバッグに記念撮影

 

起業仲間とスペインへ

 

 

私は、これから全世界を回って一度の人生を後悔なく
過ごしていきたいと思うのと、今会社で嫌なことを
我慢しながら過ごしている方を一人でも多く
救っていきたいと考えています。

 

 

話は戻りますが、震災で突如命を奪われてしまったり、
体を売ることでしか、貧富の差が激しい国だって
まだまだ存在しています。

 

 

私が、普通の会社員からビジネスの世界に
飛び込むのは無謀なチャレンジかもしれませんが、
一人でも私の姿を見ていただいて勇気づけられる人が
いてくれたら私も嬉しく思います。

 

 

とかかっこよく言いましたが・・・・

 

 

失敗したらアルバイトでもなんでもして
生活していきます(笑)
まだまだ若いですし、結婚もしていませんから、
いくらでもチャレンジできると考えています!

 

 

長文でしたが、最後まで読んでくださって、
本当にありがとうございました!

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